佐々木悟郎


「間」(ま)


日本の「間」という言葉には様々な意味があり、そのニュアンスは微妙で複雑だ。空間としての
間は転じて部屋の意味になり、「間がいい」といえばそれはタイミングを示すし、「間が空いた」と
なれば時間や距離をさす。
例えば日本の家屋は元来、土間、板の間、畳の間で構成されるのみで、西洋におけるリビングルームやベッドルームといった専用の部屋が存在するわけではない。八畳間に文机を置けば書斎になり御膳を並べれば会席に、畳を敷けば寝室にと早変わりする。つまり「間」は概念を施すための器であり、それ自体何かを主張することはない。家の構造は屋根を支える柱と床があるだけで、外と内を分けるのは木で組んだ枠に張った紙一枚である。障子をスライドさせれば、その間は一気に下界と一体になる。
日本人は概して間を生活に取り入れるのに長けていると思う。花見などで桜の木の下にシートを敷くだけでそこはグループだけの特別な空間となり、目に見えない仕切りにかこまれたプライベートな間になるのだ。人と人の間も絶妙だ。日本の路上では見知らぬ人と挨拶をすることはない。これがもしアメリカであれば、すれ違いざまに目が会うと” Hi!” などと陽気に声を掛けたりする。単純にフレンドリーな国民性だと言うこともできるが、実は多国籍民族の中にあって「私はあなたの敵ではありませんよ」と潜在的に確認しているのではないだろうか。
日本人は相手の存在は十分に確認しながらもあえてその領域には踏み込まず、何もなかったように通り過ぎていく。無視というよりも相手に余分な気を使わせないが故のふるまいであって、共通の高いメンタリティーを持った中でできる関係性である。
満員電車で次の駅が近づいてくると、ちょっとした人の動作を察知しそれが近隣の人の動きとして伝わり、ドアーが開く頃には下りる人のためのスペースがそれとなく出来上がる。その手続きには大げさなやり取りはなく、ほとんど無言で進んでいく。通された方は軽く会釈するか、聞き取れないくらいに「すみません」とつぶやくのみだ。あのようなすし詰め状態の中にも間が存在しているのは美しいと言う他はない。

透明水彩/額・外寸310×400mm

© Goro Sasaki

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